慶応三年の別れ

慶応三年の別れ慶応三年の別れ慶応三年の別れ








したらの夜話し(その4)

 送り状の後半に、、「 本身に相成りし為、国元へ送還したく、、、お役人はじめ関係各位、かくべつの配慮とお慈悲を、お願いします、、」とあり。半年余り、わが子同様に介抱した女子を、いよいよ、国送りで送り返す旨、よろしくという。本(もと)の身体(からだ)に、、、なった。もどしてあげた、とは書かずに(相成りし、、)。さらっと筆が走る。

慶応三年11月26日。1867年12月21日。明ければ、慶応4年は明治元年になる。混乱、動乱の維新前夜。街道筋の上津具村。当然、名主さんの耳にも、騒然たる世情は聞こえていたはず。なおさら送還を急いだのか、年内に送り届けようとしたのだろうか。
慶応三年の別れ送り状の下。尼才の文字。2歳。一番下の子だけ、助かったことになる。一番弱い?はず。いや、母乳に近かった分、助かったとも思ったりする。

 冬深くなる前に、この山間地を下らねば。それが決意の一端ではないだろうか。笹暮越えから東納庫村へ入る。背にオワレテ超えたのだろうか?。幼児では、古町高山も碁盤石山も目には残るまい。家族を失い、、世話になり、国元へ送られていく2.3歳の幼児に、どんな思いがあったというんだろうか。記憶に残ったのはなんだったんだろう。

 鳥羽。伏見の戦いが、明けて正月の三日に始まり戊辰の役へと混乱していく。東山道を官軍が上る。その噂が女の子の国送りを、稲武で立ち止まらせる事になる。

 亡くなった新助さん。旅の途中で倒れた無念さもあるかもしれんが、最後に手厚い介護を受け、まして娘一人を救われ、感謝の気持ちでいっぱいだったのではないだろうか。
 
   ( かみほとけ ここにおわすと つぐるさと )    

 


この記事へのコメント
この名主さんは本当に慈悲深い人だったんですね
今の時代ではなかなか考えられません
この時代でさえも親子を一ヶ月も世話をするなんて・・・
この幼子はその後どうなったのでしょうか?
とても気になります
それにしてもtotuさんすごいですね
古文書が読めるなんて・・・拍手です!!
Posted by マリミルの母マリミルの母 at 2008年01月12日 08:05
完結ですか。
いい話ですね、殺伐とした平成の世の人々に考えていただきたいですね。特に権力者に
この名主さん今は失われてしまった日本のこころを持った日本人の鏡みたいな方ですね。今の権力者とは、大違い
Posted by よっさ at 2008年01月12日 13:03
マリミルの母さん江
ゼンゼン、読めるなどといえたもんではありません。お恥ずかしい。この文書も、大雑把なあらすじを追うぐらいのもん。もっと、細部が読めにゃあ、読んだうちには。><^。これからです。
 (誰かの影響かな)本ネタがない時、私の場合、山の記事ですが。したらのヨモヤマ話しを、しようかと思ってます。
 興味以外の話しも、出てくるかも知れませんが、気楽本位で、お付き合いくださいませ。
この後で、この後を、わかるとだけを、書くつもりですが、、、



よっさ さん江
おっしゃるとおりですね。おもいやりとか、慈悲とか、いたわりとか、、、トップほど陰徳がもとめられるのにネェ~。
 拝金主義の今なら、半年の子供の養育費に、一月半の家族の介護料を請求されます。拝金だらけ、犯罪だらけ、、、、変な国になちゃったんでしょうか?。

あとで、書く機会あれば、、(この後で)と形にするつもりですが、、、、
Posted by totutotu at 2008年01月12日 16:50
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

写真一覧をみる

削除
慶応三年の別れ
    コメント(3)