慶応三年の御厚情

慶応三年の御厚情慶応三年の御厚情











したらの夜話し(その3)
 話しの続き。飯田街道へ入ったのは、飯田の元善光寺にも立ち寄るつもりだったのか。それと、鳳来寺や田峯観音を御参りして信州へ向かったためでは?と思うのだが。
 送り状の説明は続く、新助夫婦、女子三人一行は下津具村へさしかかるも、病に倒れる。そのころ悪い病気流行り、長旅の疲れで弱ってたこともあるのだろう。土地の者、小屋を立て休ませ、一家を手厚く看病する。慶応三年の御厚情しかし、厚い看護のかいなく、6月1日に女子、20日に新助妻、24日に新助、27日に女子と相次いで亡くなる。慶応三年の御厚情約一月余りの旅人への厚意は並大抵のことではなかったろう。まして相手は疫病かも分からん病人だ。飲み物、食い物に、下の世話も当然あったことだろう。頭が下がる思いで、、、亡くなった者も感謝の思いはどれほどか。神社仏閣詣でに出かけて、最後に、本物の神ほとけを、ひとの情けを見て死んでいった事だろう。

送り状の説明が続く。女子一人、助かり。。。病中につき、上津具村の名主さんが『我が家に引きとり、、、』j実の子のように可愛がって養生せる。慶応三年の御厚情この名主さんもきっとほとけ様のような人だったに違いない。世話する事5ヶ月余り。しかし、決断しなければならぬ日が迫っていた。。。。。。


この記事へのコメント
古文書の解読、興味あります。
今後の展開、楽しみです。
ところでこの古文書「TOTU]さん家にあるのですか?かなりの旧家なんですね。
Posted by よっさ at 2008年01月11日 13:08
よっさ さん江
私も興味ありますけど、読める人の一割くらいしか読めず、意味を逆によんでしまうことも。誰かに師事を受けなくては、我流になりそう??。
旧家なんかじゃありません。私で14代くらいです。本家筋はとうに東京へ出ていってしまい、14代前はわかりません。

古文書ですが、あります。今は我が家も、私のせいで衰退の坂道をくだるが如し、、、。文書ダメにしてしまう前に、然るべき郷土館などへ保管をお願い?寄贈などしたほうが、長く残るかもしれません。
Posted by totu at 2008年01月11日 19:13
私、去年から少しずつ古文書解読の勉強を始めたのですが、難しい!月に一度の勉強会で冷や汗掻いています。それにしても、興味深い文書ですね。文字も素晴しいです。
Posted by ひゅう at 2008年01月11日 22:50
ひゅう さん江
えっええ~、ほんとですか。教えてー。
辞書片手の拾い読みです。大雑把な読みで正確にはいきません。その時代、その人のクセ、言葉使い、筆のクセ、、、ほんと、わからんです。
Posted by totu at 2008年01月11日 23:35
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