したらの夜話し(その2)
この古文書は慶応三年に書かれた往来手形。上が土地の庄屋さんが書いたもの。下は檀那寺の発行したもの。いずれも町役人の署名がある。これがないと、一般人は他所へ出られない。旅ができない。
内容をくだいていうと、尾州中嶋郡上丸淵村の住人、新助なる者。信仰心厚く、神社仏閣参りのために通行を許可するというもの。檀那寺は浄土真宗の浄○寺になっている。この時期、お伊勢さんのええじゃないか、えーじゃないかのように各地で、御参りが盛んになる。史家の方に伺うと、善光寺参りにでたものという。一生に一度は善光寺参りという。お伊勢さんや善光寺参りといえば、手形も受けやすいこともあるのではないか。しかし、旅は足で行くしかない時代。一宿一飯の義と覚悟の旅につき、何かあってもご迷惑なことゆえ、捨て置き下さいというような内容になっている。
尾州中嶋郡上丸淵村は現在の祖父江町。新助さんの姓は、調べた結果、山田姓らしい。話しを進めると、往来手形を持って、山田新助さん一家6人は慶応三年の五月、善光寺参りに出る。が、、、同郡甚目寺にて、9歳の男児一人が国元へ引き返す。これは前回の送り状に書かれている説明だが。謎だらけのこの話しの中でも最初の疑問がこれで、なぜ男の子だけ戻ったのか?。旅は危険ともなれば、跡取りを残したのか?。戻ったということは、お爺さんやおばあさんや身内がいたことになる。夜逃げのようには的ハズレになる。忘れもんでもあるまい。やはり、最初から予定の見送りだったのでは?。
もう一つ、この時点で解らんことがある。往来手形の発行は7月になっているが、前回の送り状のなかで、この後 新助夫婦と三人の女の子、五人一行は五月上旬、同村隣村 下津具村へさしかかる~とある。月日が合わないが、記述の残る送り状が正解だろう。
さらに一つ、善光寺参りなら、しかも子供連れで、長野の善光寺を目指すなら中山道を上ってもよさそうなものだが、津具を通る飯田街道に入ってることだ。関連の寺院を巡って、この街道へ進んだのだろうか、、、、わからん。この続きは、、、