凸の炬燵噺  名倉駒 (続)

凸の炬燵噺  名倉駒 (続)ガーン 適当な『馬』の写真が 無いため(><) 11年前の『愚作』で失礼、、、


車 今でこそ ここ『名倉』は 東三河・浜松方面からの国道257号線が 走り、隣の豊田市・稲武町を走る国道153号線と交わる。そのための通過点で、昨今は 無料化になった『茶臼山高原道路』との併用で、東側から西側からと 交通も賑やかになっている。。。が。が、ちょつと前まで 人々の脚や物流の主流は 東は 現・設楽町は『津具』を 通る『伊奈街道』、、、西は 西三河方面から 信州は『飯田』へ抜ける『塩の道・飯田街道』の 中間に位置し、、つまりは 『狭間』に位置してい、人の往来は 両街道ほどの にぎわいは なかった。

 人の流れ程 おもしろいもんはないので、時代によって 繁栄した地域が ガラっと変わる。その現れが 街道。つまり 道なので、人の脚による時代と 自然を利用した交通手段、、舟とか、、、荷駄、つまりは『馬』とか、クルマによって『道』が 変わると、人の流れも 荷物の流れも変わり、道が変わり、町が変わる。

名倉駒と称された 『馬』も 、、、文献によれば 平安期には ちやほやされ、江戸中期には幕府に献上されるほどの『名馬』になり、([享保年間というから、例の『暴れん坊将軍』。吉宗さんが乗り回していたかも・・笑う)))、と記されてるかと 思いきや、明治期には 軍馬として「がっかり」されている。見るからに 『みすぼらしい馬』と。小型で 足太。坂道用の駄馬や 農耕馬としての 『血』になってたようで ((江戸期の平安が理由)))
 文献によれば
『福島県』から 走る血を入れ、現・駒が原に 牧場を開設した、、との記載。それまで 名倉の平らでも 『名倉駒』の生産は 盛んで、現在も地名に残る『万場』は 『うま ん場』の名残り


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