凸の炬燵噺  とや

凸の炬燵噺  とや ひみつ適当な写真が無いため使用、、、本文とは関係ありません


失恋後に『名倉談義』として まとめられる取材。基点になったのは 当時 名倉にあった『さくらや旅館』。もう一軒、名倉には『宿』があるが 宮本常一さんは ここへ逗留し取材を続ける。。。。昭和31年のこと。かすかではあるが 記憶に残っている旅館の建物、今は 蔵だけが その跡地に残ってる。



凸の炬燵噺  とやびっくりさて、、話は 右の写真。旅館の主と お孫さんが腰にぶら下げてる物の 話し。これ なんに見える?。得意げにも見えるが、実は コレ、『つぐみ』。。。。。今では 御禁制の(当然だが)、カスミ網で捕獲された 野鳥、渡り鳥の『ツグミ』。。。。冬の蛋白源として、珍味として、滋養強壮として、名倉はじめ 東濃地方では 古くから食されていた。

 渡り鳥保護から だんだん取り締まりが強化され、40年代には 消えるカスミ網猟なのだが、この30年代は まだ 名倉でも 5・6人の『とや』をやる人がいた。大変な貴重品で いい収入にもなった。 

 一羽、、いくらで買い取る商人や場所があったが、直接 山へ食べに行くのが本筋だった。

『とや』とは 渡り鳥が羽を休めるに ちょうどいいような 広葉樹の小さな山のテッペンから 斜面に カスミ網を 何段にも掛けて、、そこに『オトリ』の好く啼く『親鳥』の入った鳥かごを置く。
で、鳴き声につられて 渡り鳥が舞い降りる。。。と、見るや 今度は 思いっきり 脅かすのだ。いろんな方法があるが、水を含んで。ブワッーと飛ばす、、驚いて飛び立つ鳥が網にかかる、、という仕組み。

ちゃんと泊まれるように 番小屋があり、そこに親鳥も飼い、、山へ上ってくる『お客さん』の接待もする。これを『とや』と呼んでいた。

とんでもない美味で、脂ののった野鳥の味を求めて、よく接待にも使われて、お客さんは『上客』などという肩書をもった連中も多かった。それに 当時 身体の弱い、、、勉強のし過ぎでなんてぇ人も、親が金を払い シーズン中、『とや』へ通わせる。朝早く、山へのぼり、『焼き鳥』を一羽 くって山を下る、、、。そりゃぁ 元気にも なるわなぁ

、、、って ばかに詳しいねぇって、、、実は 私の母方の祖父はこの『とや』を遅くまでやっていた。役所の指導が入り、、名倉でも最後から2番目にやめている。小学生5・6年のころだったか、友達 数人連れて上ったことがあり、やめる数年前には「とや師」を手伝ったこともある。

春は『アメノ』、、夏は『鮎』、、秋は『ツグミ』、、冬は『狸・キツネ』などなど 米作りの兼業に『猟』をした祖父。。。。傑作は 夏の『鮎』。捕れた『鮎』を自転車で 名古屋へ運んだ(><)(><)


仕事につき、後程、続かん、いや 続く、、、おぃ どっち


この記事へのコメント
『とや』…初めて知りました
炬燵噺、おもしろい!

夏の鮎を名古屋までどうやって自転車で
持っていたのか気になるに~

炬燵に火が入るの待ってるでね…ヽ(´▽`)/
Posted by かいくんばあば at 2012年12月16日 08:45
かいくんばあば   さん江

とや、、、鳥屋ってぇことだね。恵那か  岩村に 鳴き声を競う大会があって 祖父は 餌に工夫を 凝らして、いい声にするんだ、、とか言ってた。

 20羽くらい 飼ってた。エサの作り方も 教えてもらった、が 忘れたなぁ

※※ 今日、確かめたけど、、、、足助までは 間違いなく、自転車で 伊勢神峠を越えて おろしたようで、 そのあとx、何らかの方法で 名古屋まで 持って行ったらしい。ここが 諸説 あって はっきりしない。

場所は 名古屋は八事の『八勝館』。名倉産のアユは 香り満点とかで 自慢にしてたことは 覚えてる、、、ついでに それで痔をわるくしたとか(><)

で、思いついたのが、やたら こちらの 大昔の連中は 自転車(笑)、、、夜這いも自転車で(><)って 悪いじょうだんですが

この本の記述の中に 浜松の国道が 砂利道ってぇ書いてある、、私、有名な天竜川の木の橋、、お金 盗られたんだねぇ
あっ、間違え 取られたんだねぇ

※年賀状モードにはいるけど ブログちょこちょこ やるで よろしく
Posted by 凸凸 at 2012年12月16日 19:22
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    コメント(2)