凸の炬燵噺  とや

2012年12月15日 10:09

 適当な写真が無いため使用、、、本文とは関係ありません


後に『名倉談義』として まとめられる取材。基点になったのは 当時 名倉にあった『さくらや旅館』。もう一軒、名倉には『宿』があるが 宮本常一さんは ここへ逗留し取材を続ける。。。。昭和31年のこと。かすかではあるが 記憶に残っている旅館の建物、今は 蔵だけが その跡地に残ってる。



さて、、話は 右の写真。旅館の主と お孫さんが腰にぶら下げてる物の 話し。これ なんに見える?。得意げにも見えるが、実は コレ、『つぐみ』。。。。。今では 御禁制の(当然だが)、カスミ網で捕獲された 野鳥、渡り鳥の『ツグミ』。。。。冬の蛋白源として、珍味として、滋養強壮として、名倉はじめ 東濃地方では 古くから食されていた。

 渡り鳥保護から だんだん取り締まりが強化され、40年代には 消えるカスミ網猟なのだが、この30年代は まだ 名倉でも 5・6人の『とや』をやる人がいた。大変な貴重品で いい収入にもなった。 

 一羽、、いくらで買い取る商人や場所があったが、直接 山へ食べに行くのが本筋だった。

『とや』とは 渡り鳥が羽を休めるに ちょうどいいような 広葉樹の小さな山のテッペンから 斜面に カスミ網を 何段にも掛けて、、そこに『オトリ』の好く啼く『親鳥』の入った鳥かごを置く。
で、鳴き声につられて 渡り鳥が舞い降りる。。。と、見るや 今度は 思いっきり 脅かすのだ。いろんな方法があるが、水を含んで。ブワッーと飛ばす、、驚いて飛び立つ鳥が網にかかる、、という仕組み。

ちゃんと泊まれるように 番小屋があり、そこに親鳥も飼い、、山へ上ってくる『お客さん』の接待もする。これを『とや』と呼んでいた。

とんでもない美味で、脂ののった野鳥の味を求めて、よく接待にも使われて、お客さんは『上客』などという肩書をもった連中も多かった。それに 当時 身体の弱い、、、勉強のし過ぎでなんてぇ人も、親が金を払い シーズン中、『とや』へ通わせる。朝早く、山へのぼり、『焼き鳥』を一羽 くって山を下る、、、。そりゃぁ 元気にも なるわなぁ

、、、って ばかに詳しいねぇって、、、実は 私の母方の祖父はこの『とや』を遅くまでやっていた。役所の指導が入り、、名倉でも最後から2番目にやめている。小学生5・6年のころだったか、友達 数人連れて上ったことがあり、やめる数年前には「とや師」を手伝ったこともある。

春は『アメノ』、、夏は『鮎』、、秋は『ツグミ』、、冬は『狸・キツネ』などなど 米作りの兼業に『猟』をした祖父。。。。傑作は 夏の『鮎』。捕れた『鮎』を自転車で 名古屋へ運んだ(><)(><)


仕事につき、後程、続かん、いや 続く、、、おぃ どっち